【第3回】 没後100年(1868)頃の白隠観
白隠がいつごろから「中興の祖」と呼ばれるようになったのかは定かではないが、没後100年にはすでにそのような認識が定着していた。
「中興の祖」とは、文字どおり「一旦すたれた宗旨を挽回した人」ということだが、白隠は宗旨を旧態に復したのではない。むしろ、新しい時代に即応した人類救済のプログラムを提起した、一箇の宗教改革者であったというべきであろう。
では、現今の日本臨済宗は白隠の宗教改革の結果であるかといえば、必ずしもそうではない。白隠の提唱した宗教改革は、未だに全うされぬままであると言ってよい。
たとえば、白隠没後100年はちょうど明治元年に当たる。このころ、臨済宗では現在の修行形態である「専門道場」がほぼ出揃い、そのシステムが現在に至っている。けれども、これらの修行方法は必ずしも白隠が意図したものではない。
そしてまた、明治期になると「白隠禅師坐禅和讃」が日課として採用されて誦まれるようになっているが、これも禅師は期待しなかったことであろう。「坐禅和讃」は白隠の若いときの著作ではあるが、禅師はそこに書かれていることを一生涯、標榜したのでもなかった。
「坐禅和讃」は白隠禅を端的に著わすものではない(2)。一見一聞、俗耳に入りやすい和讃形式であるために、宗門当局者によって、大衆教化の一方便として安易に採用され、そのまま惰性として定着したものではないか。
「坐禅和讃」は今もなお、臨済宗では日課として誦まれ、在家信者にも勧められる基本聖典であるが、これは白隠禅の核心ではない。白隠がもっとも熱心に一貫して主張したのは、四弘誓願の実践、つまり永遠の菩薩行の実践ということである。
白隠は、自らが考案した「隻手の公案」をはじめとするいくつかの公案によって、とにかく見性をせよ、という。しかし、これが最終目標ではない。さらに「悟後の修行」をすべきことを勧めるのである。「悟後の修行」とは、「上求菩提、下化衆生」のたゆまぬ実践、永久革命である。白隠は坐禅の効用だけを説いたのではない。(3)
このような白隠禅の特質が認識されぬまま、白隠は没後100年にして、妙心寺派の傑僧・高僧として奉られるに至ったといってよい。