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仮名法語(芳澤 勝弘)

 辺鄙以知吾へびいちご 〔解説〕

 「宝暦第四甲戌歳 仲秋吉辰」の刊記のある自筆刻本のほかに、松蔭寺所蔵自筆真本(折本で上下二巻の上巻、76開92頁)、永青文庫所蔵自筆真本(墨付92枚、「宝暦第四甲戌歳抄夏二十五日」の記)、帰一寺所蔵自筆真本(墨付68丁半一冊、「宝暦第四甲戌歳抄夏佳辰」の記)がある。すなわち、宝暦四(1754)年、白隠70歳の年に書かれたものである。

 これまでに翻字されているものには、竜吟社版『白隠和尚全集』(昭和10年)と「大日本文庫」本の『白隠禅師集』(昭和13年)がある。前者は、その解題に「宝暦四年甲戌十一月の自筆刻本ありしよし」と書いてあるから、自筆刻本に拠ったものではないらしい。おそらくは文久二年に重刊された流布本に従ったものか。この文久版については、最後に触れることにする。「大日本文庫」本は松蔭寺本を底にし永青文庫本で対校したものと記す。

 いま、ここでの翻刻は「宝暦第四甲戌歳 仲秋吉辰」の刊記のある自筆刻本に拠り、永青文庫本および帰一寺蔵の真本を参照した。自筆刊本の内容は、この二つの写本に比べて、記述が大幅に増補されている。主だった異同はいずれも注に記した。松蔭寺本は未見、「大日本文庫」によって参照したにとどまる。

 本書の冒頭には「何某の国何城の大守何姓何某侯の閣下近侍の需めに応ぜし草稿」とあるが、この部分は、松蔭寺本では「備之前州岡山城之大守池田伊豫守殿閣下…」、永青文庫本では「備陽岡城之大主池田豫州殿下…」とある。すなわち、岡山藩第四代藩主の池田継政(1702~76)に宛てた手紙の形をとる仮名法語である。

 池田継政は、元禄十五年岡山に生まれる。通称、茂重郎。のち将軍家継の一字を賜り継政と称した。宝永六年(1709)兄政順の死去に伴い世子となり、正徳四年(1714)襲封。39年間にわたり治政につとめ、宝暦二年(1752)隠居して西の丸に住み、同五年(1753)剃髪して空山と号した。書画にたくみで能楽や和歌も好んだ。安永五年(1776)歿、享年75歳。白隠より17歳年下。菩提寺は岡山藩第三代の池田綱政が開基となって開いた曹源寺である。

 巻下の52丁には「一年、国清練若において見参しまいらせし」とあるが、永青文庫本では「一年」を「三四年前」と具体的に書いてある。宝暦四年から「三四年前」は寛延三、四年になる。白隠禅師の『年譜』によれば、白隠が岡山城下に行ったのは寛延四年(1751)67歳の春のことである。おそらく、その折に国清寺で池田継政と会ったものであろう。本書の冒頭には「先回は久しぶりにて不慮の面謁」などとあるから、池田継政が松蔭寺に立ち寄ったと推測される。江戸期の随筆『譚海』の巻十一には次のような記事がある。

備前の池田大炊頭殿、参覲往来には、必ず白隠和尚の駿河の庵へ立寄られける。休息の間、和尚と献酬ありし時、和尚申されけるは、我等願ひ御座候、あれなる鑓持、殊に寒げに見へ候、何とぞ御盃を給はれと申されしかば、頓て大炊殿、鑓持に盃を給はりける。翌年、此鑓持、侍に取立られ、和尚の所へ立寄、懇に謝し、士に成ぬる事を悦び云ける。国守の盃を賜れば侍に取立られる事、彼家の例也といへり。

禅師と池田侯の交流を偲ばせる逸話である。
 さて、本書の内容構成は次のようである。

巻之上
  1. 前文(~5丁表)
  2. 仁政と養生のすすめ(5丁裏~7丁表)。源義家、坂の上田村丸、源頼朝、主馬の判官盛久、悪七兵衛景清、楠兵衛正成、多田満仲の信心(~9丁裏)
  3. 延命十句観音経のすすめ(10丁裏~)。高皇観音経のこと(13丁裏~)
  4. 橋奢華麗を誡める(16丁裏~)。畜妾の誡め。
  5. 佞臣を遠ざけて賢臣を用うべきこと(21丁表~)。一国を滅ぼすのは酷吏であること(22丁裏~)
  6. お家断絶した中国のある藩の例(28丁表~)
  7. 暗君は酷吏を重用する(33丁表~)。酷吏の末裔は断絶すること(38丁表~)
  8. 村役人の専横と百姓の蜂起(39丁表~)。寺院が百姓を騙し賺して一揆を懐柔すること(41丁表)。悪いのは百姓ではなく酷吏と村役人である(42丁裏)。今生に富貴を誇る村の長者も奢れば必ず断える(46丁表)。村民の謎々(48丁表)
  9. 仁政を行なった人の例、羊姑(50丁)と関羽(51丁表)のこと。
  10. 仁政のすめ(52丁~)
巻之下
  1. 大樹神君家康公の善政の威徳を賛える(1丁表~)
  2. 神君御遺訓の精神こそ仁政の理想であるとの絶賛(4丁表~17丁表)
  3. 池田侯に仁政と万善行をすすめる(17丁表~)。痴福は三世の冤(20丁裏)
  4. 京の御室が高野の御室に語った話(21丁表~24丁裏)
  5. 桂山の老婆の話。老婆の娘が地獄から生還して語る見聞(24丁裏~32丁裏)。地獄を妄談とするは断見外道の所見(33丁表~34丁表)
  6. 富貴の身にして出家した人の例(34丁裏~)。妙荘厳王、花山法王、真如大徳、千代野、中将姫、祇王、祇女、仏御前、慧春比丘尼。万里小路藤房、時頼、刈茅重氏、佐藤憲清、態谷直実、遠藤盛遠、岡部六弥太など。
  7. 華奢を禁じ浮費を制して、民をあわれみ恵む事が第一の徳行(37丁表)。側室、婢妾の数を減らすべきこと(38丁裏)。畜妾の害(39丁裏)。舞妓、戯女を買う大名(41丁裏)。その皺寄せは百姓に帰する(43丁裏)
  8. 参勤交替の大名行列の批判(44丁表)。その膨大な費用は結局百姓のつけになる(46丁表)
  9. 「死字」に参ずることをすすめる(46丁表~)
  10. 大尾。

 巻之上では古今の例をあげ、もっぱら仁政を説く。そして更に巻之下では、家康の『神君御遺訓』を引いて、その精神こそ仁政の理想であると、賛辞を連ねている。10丁裏には「人あり必ず云ん。鵠林俄かに此書を讃して六経にも越へたりと、何ぞ考へざるの甚しきや、此漢必ず諂ひ求る処あらんと」とあり、『御遺訓』が如何なる書にも勝るなどと、白隠はこびへつらっているのではないかと批判されるかも知れないが、と断った上で、その叙述は延々17丁の長きにわたっている。

 その他、本書の中でもっとも着目されるのは、上でいう17、18に書かれている、社会問題に対する頗るはっきりとした批判である。

 17では、諸大名が多くの妾をかかえ、時には京から数百両の大金で「舞子」「白人」といわれる戯女を買って国許に呼び寄せ、「二三年も玩びては、又は取かへ引かへ、扇子か煙管など取かゆる様に心易く覚へ玉ふ諸侯も是有るよし」と、大名の放逸で奢侈な生活を指弾し、「畢竟、憐むべく悲しむべきは領内の万民」であると批判する。そうした結果、当時頻繁に起きていた一揆や強訴のことにもふれ、「窮鼠却て猫を咬むと云んか」と、百姓に同情を示し、その「兆本(真犯人)は民にあらず、却て吏と長となる事を」と、はなはだ激烈な調子で、当時の政治批判を展開している。

 18では、いわゆる大名行列について手厳しい批判をくわえている。本書の44丁表以降の大意を現代文にすれば次のようである。

 列国諸侯の参覲交代の行列を見るに、先供え、後供え、長柄、槍、武具、馬具、籏竿、幕串などを連ねた夥しい人数の行列であります。時に、大井川や阿倍川でちょっとした川留めになると、川明けまで宿駅に滞留せねばならず、その費用は千両二千両にもなるということです。

 そもそも、大名行列は戦国時代の、生きるか死ぬかの一大事があった時代のしきたりでありましょう。家康公以来、いまや天下太平の御代である。諸侯の道中往来に金銭を費やすことが家康公の御心ではないはずです。

 仁者は敵なしとも申します。どうかせいぜい仁政を施され、民を憐れむ政治をなされますよう。道中の用心のためならば、これはと思う者達を前後に十騎ずつ召しつれられる方がよろしい。いいかげんなオベンチャラ者どもを千万人つれ歩くよりはるかにましというものです。

 とはいっても、大福力があって少しも民百姓を苦しめないというのでしたら、何万騎つれ歩こうと御随意ですが、どの国のことを聞いても、結局は百姓に皺よせがいくことは、まことに悲しい限りであります。

参勤交代の制度は江戸以前からあったものだが、江戸時代になると、諸藩を統制し幕藩体制を維持する根本政策となった。諸大名は在府・在国一年交代となり、大名妻子をはじめ多くの家臣団が江戸に常住することになった。

八代将軍吉宗は、幕府財政再建のために、享保七(1722)年、上米(一万石に対して米百石)をさせ、その代償として参勤交代を緩和し、在府半年・在国一年半としたが、やがて1730年また旧制に復した。すなわち白隠禅師の時代はこれに当たる。

 例えば、本書『辺鄙以知吾』が宛てられた先である岡山藩の場合、元禄十一年の「総人数御供方在江戸共」によれば、同年の参勤共人数は1,628人、江戸在住者は1,394人。合わせるとおよそ3,000人となる。参勤供人の内訳は、侍115、徒81、坊主28、御手廻り27、御六尺(駕籠を担ぐ人足)14、御触番22、御中間52、御足軽176、御小人291、又者(臣下の家来のこと)756。道中費用は、寛政十年から文政九年まで28年間の平均は約3,000両という(以上『藩史大事典』)

 宝永四年現在の御家中男女人数が約1万人というから、上記の参勤供人数および在府人数は、およそその3割を占めることになる。参勤の道中費と江戸と国元での二重生活の経費が、いかに藩財政に影響を与えたかが推測できる。

 このように、諸大名の参勤交代に要する費用は莫大なものであったから、幕府もしばしば制度を改めることもあったが、根本的に改善されるわけではなかった。むしろ、諸大名は互いに威勢を張り見栄を飾る傾向にあり、結果的にこれが諸藩の財政を圧迫する主因ともなった。殊に、九州大名の場合は遠方であったために出費がかさみ、財政に深刻な影響をもたらした。

 白隠に参禅していた肥前の蓮池藩鍋島侯(『遠羅天釜』は鍋島直恒侯に宛てて書かれた)の場合など、元文三年(1738)には参勤中止の旨を佐賀本藩に願い出たが許されなかったこともある。延享元年(1744)には、蓮池藩をはじめとする佐賀の三支藩が病を理由にして参勤を遅延したが、幕府からきびしく糾弾されることもあった。

 大名行列は東海道を通るものが全体の6割を占めたといわれるが、原宿の「駅亭の長」の家に生まれた岩次郎(白隠の幼名)は、幼少時からこれを間近に見ていたであろうし、松蔭寺に住職してからも、寺前を多くの大名行列が通るのを目の当たりにしたことであろう。禅師はこの制度の皺よせが結局は民百姓に帰するのを、実に苦々しい思いでみていたのである。

 さて、17、18に見られるような、御政道批判ととれる内容も当然その一因となったのであろう、果たして『辺鄙以知吾』は禁書となったのである。

 明和八年刊、京都書林仲間編の『禁書目録』(汲古書院『日本書目大成』第四巻に影印所収)という本があり、その「絶版之部」の中に『辺鄙以知吾』の書名が記されている。『禁書目録』の序には次のようにある。

古来、御制禁之唐本、和書、並に絶版売買停止之書、其外、秘録、浮説之写本、好色本之類は片紙小冊なりといへども、かりにも取扱ふべからず。常々相慎堅く法令を相守るべき旨、毎歳正五九月書肆会集の砌、ねんごろに是を戒めおくといへども、書目多数の事なれば、一々記臆しがたく、或は忘却し、或は意得たがひも是あるべし。依之、今般右之書目、古来より伝聞記録する所、大抵其類を分けてこれを記し印刻して小冊となし、書肆家々に附与し、人々常にこれを点検して、いささか疎略之誤りなからん事を願ふもの也、……

出版取り締まりに関する最も早いものは、延宝元年(1673)の江戸町奉行所から出された触書であるが、その後、享保六年に本屋仲間が公認されてからは、本屋仲間によって自主規制されたという(宗政五十緒『近世京都の出版文化』・同朋舎出版)

 上記の『禁書目録』は、つまり書林仲間の覚えのために作成された目録である。最初に「貞享乙丑年南京船持渡唐本国禁耶蘇書」の項があり、38部の書目をあげ、次に「書本」の項があり122部を載せる。

 ここで注目されるのは、『東照創業記考異』『松平記』『松平系図』『東照宮御遺訓』『東照宮御縁起』といった徳川家に関する書目があることである。そして、この項の最後には「右載する所の外、聞書、雑録等之写本数多これ有べしといへども、一々記すに暇あらず。すべて禁庭、将軍家之御事はいふに及ばず、堂上方、武家方、近来之事を記したる書は、右目録にのせずといへども、堅く取扱ふべからず、……」とあり、徳川家に関するものは、ことごとく禁書だったのである。

 『辺鄙以知吾』の中で、白隠は『東照宮御遺訓』を延々と引いて云々しているのだが、当然のこと『東照宮御遺訓』は禁書であった。『国書総目録』で『東照宮御遺訓』の項を見るに、数十種の写本があるが、版本は一冊も見ることができない。版本で公開することなど許されていなかったからである。

 先の序とあわせ見る限りでは、禁書というのも、書林仲間の自主的規制という感がするが、最後の項の「絶版之部」に収められるものは、その筋の検閲によって「絶版売買停止」を命ぜられたものである。『辺鄙以知吾』は『太平義臣伝』『色伝授』などと共に、この項に絶版禁書として列せられているのである。

 『辺鄙以知吾』が絶版禁書となった理由には次のことが考えられる。

  1. 大樹神君の御政道、また『東照宮御遺訓』について云々していること。
  2. 諸大名の私生活を批判していること。
  3. 参勤交替制度の批判をしていること。

『東照宮御遺訓』は禁書だから読むことが禁止されていた。ましてや、その内容を評論することをや。白隠はこの書を仁政の鑑として最大限の賛辞をおくっているのだが、たとえ賞賛であっても、これを云々することは禁忌であったはずである。しかるに白隠はこの書が禁書扱いされていることをも厳しく批判するのである。

佞臣賊士の如きは、此書の世に行れん事を憎んで、必ず云ん。苛くも吾が大樹神君、明徳至善の遺言、豈にかろかろしく世間に流布して、鄙俗の手に触るゝ者ならんや。唯是十重に包裹し了て、文庫の底に納め蔵くして、人おしてみだりに披覧せしむべからずと。(巻之下14丁裏)
然るお是を秘し、是おかくして、空布蠹魚の腹の中に葬られば、かならず神君の冥慮に違せんか。(同、17丁表)

元禄から享保期にかけての江戸、京都、大坂の巷説風聞などを記録した『月堂見聞集』(本島知辰著)という書があるが、その巻之十二、享保五年の条には、『禁書目録』に載せる右の『太平義臣伝』『色伝授』の発禁の始末を記していて興味深い。『辺鄙以知吾』の刊行をさかのぼること30年ほど前のことである。

八月十八日口触。頃日色伝授と申草紙板行致、不埒成事有之様に相聞候、絶板商売停止申付候条、右草紙取あつかひ仕間敷旨、洛中洛外へ可触知者也。
八月廿四日、京都本屋共へ被仰渡候、太平義臣伝十五冊、右は赤穂大石氏の事を記す大坂板也、右売高何部と申事知れ可申間、売付候処へ代銀持参仕買戻し可申候、遠国へ参知れ不申候も可有候間、知れ不申候部数何程と書付可指上候、右之書物絶版被仰付候、此外に新板物無訳草紙、吉良殿事等の草紙絶板。

『色伝授』は、絶板の上、商売停止が言い渡され、『太平義臣伝』の場合では、頒布した書を買い戻した上で絶版が申し付けられている。おそらく『辺鄙以知吾』に対しても同様の処置がとられ、右の二書と同じく、頒布されたものがに回収させられたのではないかと推測される。

 『太平義臣伝』は『赤城義臣伝』ともいうが、松浦静山(1760~1841)の『甲子夜話』続篇、巻三十五にその写しが載せているが、それは絶版の「当時に於て摸写せし」ものであるという。絶版になっても密かに写して読まれたのである。

 『京都書林仲間記録』(ゆまに書房)「諸証文標目」の部の宝暦五年六月の条には、

  • 辺鄙以知吾に付、吉田三郎左衛門殿より取之一通、
  • 同、田原重左衛門殿より取之一通、
  • 同、吉田三郎左衛門殿より取之一通、

とある。これらの証文そのものは残されていないので内容は不明だが、『辺鄙以知吾』の刊記が「宝暦四年仲秋」であり、その翌年六月のものであるから、あるいは『辺鄙以知吾』の回収に関わるものではないかとも思われる。

 ところで、この初版刊行からほぼ百年余を経た、幕末の文久二年(1862)に再刻(白隠自筆ではない)された『辺鄙以知吾』がある。その書の巻末には「文久第二壬戌夏日 再板 三谷重緒浄書 増田宏道刻」とあり、釈忍阿という人による、延々23丁にわたる長文の跋がある。

その跋の内容は白隠が『辺鄙以知吾』で述べる趣旨に賛同し、諸書を引いて更にその趣旨を敷衍するものである。再版事情に関する記述のみを引けば次のとおりである。まず、冒頭に、

辺鄙以知吾は白隠禅師之法語にして、久しく世に絶しを悲歎し、此度書肆を勧誘して再板せる者也。此法語は唯々専ら四民和合を本とし、国家安穏にして、生死出離の理り迄を説き教へり。

とある。これによれば、再版者である釈忍阿は、かつてこの書が発禁になったことは知らなかった模様である。すでに百年を経過して、かつての禁書処分のことは忘却されていたのかも知れない。そして跋の末尾にいう。

白隠禅師此の法語を書遺せるも、またまた万代の末迄を憂患せる深意にして、久しく世に埋れしを、此度再板せる歓喜の余りに、表題に辺鄙以知吾とある文意を含みて、世わたりにも船道を行との言の葉によそえて、懸詠を述べ、をこがましくも端書をなし畢ぬ。道を以て辺鄙も知り得ば吾れもなく彼もなきさにすめる船人。……文久壬戌年季夏 釈忍阿。

大日本文庫版『白隠禅師集』の解題で、常盤大定博士は「政治的識見の濃く現はれ、首尾熱烈なる意気を以て貫通し、頗る激する所ある如く、行文亦甚だ生彩あるものとして、特に研究さるべき一篇である」と評価している。

白隠禅師が社会問題に言及した法語には『壁訴訟』 『夜船閑話』巻之下(真本のみ、版本なし) 『於仁安佐美』巻之上 『さし藻草』などがあるが、『辺鄙以知吾』はその中でも最も出色のものと言えよう。

1971年にはフィリップ・ヤンポルスキー氏によって英訳(“The Zen Master Hakuin: Selected Writings” Traslated by Philip B. Yampolsky COLUMBIA UNIVERSITY PRESS NEW YORK and LONDON 1971)が出され、欧米で普及している。日本でももっと広く読まれて欲しい一書である。

〔参考文献〕
『白隠禅師法語全集 第一冊 辺鄙以知吾・壁訴訟』
芳澤勝弘 訳注
禅文化研究所、1999年
 
Last Update: 2005/10/30


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